「ちきしょー!こんなはずじゃなかったのに・・・。」
ある日の夕方、私は群馬でただひとり机もイスも何もない事務所の床を、悔し涙を流しながら掃除していました。
私は、昭和40年東京中野区に漬物屋山傳の3代目として生まれました。山傳は明治44年 生まれの祖父が昭和5年に興した会社です。祖父は大野家の養子でした。(なので厳密には私にも大野家の血は入っていません。)祖父が本当の子じゃないといじめられながらも、負けじと努力して、昭和5年に興したのがこの山傳でした。「おれは酒もたばこも40を過ぎてからだ。それまでは 貧しくて飲めなかった。」と大好きなお酒を飲みながら何度となく私に話してくれたことをよく覚えて います。それだけ祖父の努力あっての山傳でした。
私は、31歳で山傳に戻りました。そして、37歳から父と共同代表という形で会社を経営。しかし、時代の変化に対応しきれず価格競争にも巻き込まれ、群馬の製造工場閉鎖。事業を東京だけに縮小 するため50人もの人員をリストラ、群馬の事務所まで閉鎖せざるを得なくなりました。私は会社に 1円でも多く敷金を返金してもらうため、群馬事務所の解約の際、清掃業者を入れずに自ら掃除 することを大家さんに伝えました。
近くの廃棄物処理場に、父や母、妻にまで手伝ってもらいながら、使えないものを軽トラに積んでは何往復もしました。そして、最後は私がただひとり、もぬけの殻となった群馬事務所の床を、せっかく祖父が努力して築いてくれたのに・・・と自分のふがいなさへの悔し涙と閉鎖することの悲しさも混じった涙を流しながら掃除していました。
その後、私は祖父の代から並行して行っていた食品の卸に事業を絞りました。ただ、他と同じことをやっていては、じり貧になるだけなので、他とは違うものを取り扱おうと決意。また、その時どうしても頭から離れなかったのが、大好きなお酒を幸せそうに飲む祖父の姿でした。
そこで、私は祖父も大好きだった“お酒に合う食品”、それも“他が取り扱っていない”ようなものを見つけご提案していこうと思いました。幸い私自身、山傳に戻ってくる前はお酒の販売営業をしていたこともあり、どういったものがお酒に合うのかも熟知していました。
そして、そのような形で事業を続けてきた結果、「大野さんは他にはないものを紹介してくれるからありがたい」等、嬉しいお声をたくさん頂けるようになりました。数年前からは、もっとお酒に合う、他にはない商品と言うことで、“酒粕漬”などの商品開発にも力を入れ、あの青森県の“田酒”で有名な叶シ田酒造店さんの社長からも熱意を買って頂き、田酒の酒粕を卸して頂けることになり、山傳オリジナルで“田酒の酒粕漬”を作らせて頂けることにもなりました。
これからも、天国でもお酒を飲んでいるであろう祖父に恥じぬよう、お酒に合う、そして、他にはないこだわりの食品を漬物屋の3代目としてご紹介してまいります。
何卒、よろしくお願い申し上げます。お読み頂きまして有難うございました。 |